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Shota Maehara's Blog

 すべての道はローマに通ず―人格の完成を求めて

Posted by Shota Maehara : 5月 6, 2008

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私の愛する詩人・小説家のひとりにヘルマン・ヘッセがいる。彼は、幼くして詩人を志し神学校をやめ、さまざまな場所や職を転々としながら作品を発表した。そして、彼は二十数年にわたってインド思想に傾倒し研究を続けた。その集大成ともいえる作品が『シッダールタ』である。ここでヘッセは自らの芸術への道のりと釈尊の悟りに至るまでの人生の諸段階を見事に重ね合わせている。

この作品の中でとても印象的なのは、シッダールタつまり釈尊が、悟りを開く直前に川の渡し守・ヴァズデーヴァのところに弟子として留まる場面である。若き日から救いを求めて魂の遍歴を繰り返す中で、聖賢の教えを疑うことなく信じた他の僧侶にはないものを彼に見出したからである。寺院にいる僧侶が経文や徳の高い人物の教えを通して学ぶのに対して、ヴァズデーヴァは渡し守という仕事を通して静かに川のささやきと対話してきた。この場面のクライマックスで次のような会話が交わされる。

「おん身も」とシッダールタはあるとき彼にたずねた。「おん身も川から、時間は存在しないという秘密を学んだか」

 ヴァズデーヴァの顔は明るい微笑に包まれた。

「たしかに、シッダールタよ」と彼は言った。「おん身の言おうとするところはこうだ。川は至る所において、源泉において、河口において、滝において、渡し場において、早瀬において、海において、山において、至る所において同時に存在する。川にとって現在だけが存在する過去という影も、未来という影も存在しない」

「そうだ」とシッダールタは言った。「それを学び知ったとき、私は自分の生活をながめた。すると、これも川であった。少年シッダールタは、壮年シッダールタと老年シッダールタから、現実的なものによってではなく、影によって隔てられているにすぎなかった。シッダールタの前世も過去ではなかった。彼の死と、彼の梵(ぼん)への復帰も未来ではなかた。何物も存在しなかった。何者も存在しないだろう。すべては存在する。すべては本質と現在をもっている」(高橋健二訳)

こうしてシッダールタは時空の超克という自らの悟りの境地へと至る。極めて美しいパッセージである。これはいわゆる仏教において一切が「空」であるという思想を想起させる。われわれはポツンとひとつで存在しているのではなくあらゆるものと時空の中で相互依存関係、すなわち「因果」によって結ばれている。その自覚から、あらゆるものへの慈悲=思いやりへ至る道程はあと一歩である。何よりも私が強烈なインパクトを受けたのは、その知恵が書物のなかではなく、日々生きることの中から仕事する中から見出されたということ一点に尽きる。

それは私にまさに同じような経験が過去にあったからだ。私の母方の祖父母は天理教に帰依しており、私自身も何度も教会に訪れたことがあった。その分教会で働く身の回りのお世話をするおばあちゃんは、いつも朗らかで優しい笑顔や言葉を決して絶やさない。まるで「仏様」のような人だ。以前私が事情があってここに幾日か滞在させていただいたときにも親切な人柄が身にしみて感じられたのだった。

しかし、後で聞く所によれば、彼女の身の上は幸福とはいえぬ壮絶なものだったという。幼くして交通事故に遭い自分以外一家全員を失った。やがて縁あってこの教会に引き取られたのだという。その彼女が決して他人への不満を口にせず、幸せですよという時の驚き。毎日5時頃から起きだして、炊事洗濯や教会のおつとめの準備などを四季が廻るリズムに合わせて生き、働かせていただけることに感謝する。生きるということがそれだけでどれほど偉大なことかをまざまざと見せつけられた気がする。先のシッダールタの話もまさに同じような人間への限りない驚きと敬意に満ち満ちている。

きっと誰でも人生の途上である精神的危機に見舞われた経験が何度かあるだろう。そんな時には、とても平凡な先輩やお年寄りの一言が深く心にしみこんでくることがある。特に、そんなとき私が感じるのは、哲学もまた広い人間性の一部にしか過ぎず、私たちはより謙虚に人格の完成に向かって日々自分を高めていかねばならないのだということである。学問はそのための手段であって決して目的ではない。たとえ学問がなくてもこれほど素晴らしい感化力を持つ人たちが身の回りにたくさんいるではないか。その道のりはきっと学問だけではない。ただ私はその一つの道を選択したにすぎないのだ。

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